古本屋まるちゃんの人生卑猥っす!
日々生きる。毎日の日課をこなす。仕事をし、服が汚れる。洗濯して乾かす。それをまた着て汚す。飯を作り、食べ、ゴミを出す。また腹が減る。飯を作って食べる。ゴミが出る。
時々、生きることはゴミを出すこと、その繰り返しだと思うときがある。
しばらくそれを続けているうちに、ふと自分が、自らの生活の檻に閉じ込められてしまうことがある。そうすると、目にする風景も、使う言葉も、食べるものも、その檻の中をグルグルと回るように変化がなくなる。
自分の日常に支配されてしまうのだ。
そんなとき、自分の生活圏に無かった、全く異質の要素が放り込まれると、「あれっ?」という不思議な感覚を得られる瞬間がある。平常運転していた機械に、急にエラーメッセージが表示される感じ。
それは本を読んだり映画を観たりすることでも発見できるし、あるいは日々の生活の中でいきなり目に飛び込んできたりもする。
初めて見聞きする言葉。懐かしい景色、匂い。変わった味わい。古き良き友達。
たとえ微かでも、自分の頭に「あれっ?」と引っ掛かったそのフックのようなものは、それまで同じ場所をグルグルと回っていた生活の檻を開け放ってくれる鍵のようなもので、僕はそれを「センスオブワンダー」と呼んで大切にしている。
センスオブワンダーは、一般的にはレイチェル・カーソンの著書で提唱されている自然界の中に見られる感動や、SF小説の中で感じる不思議な感覚を指して名付けられた概念だけど、僕はもっと広義なものだと思っている。
センスオブワンダーは、自分が置かれている環境とかけ離れていればいるほど、強い衝撃を伴って実感することができる。
一見するとそれは、自分とは無関係なもののように思えるが、完全にそうとは言い切れない。極細の繊維ほどの薄さで、自分の心の深い部分と繋がっているから不思議だ。
センスオブワンダーは、変化のない暮らしに爽やかな一撃を与えてくれる。
小説や映画には、異なる要素をくっつけたタイトルが多い。例えばここ最近観た映画で「高慢と偏見とゾンビ」というゾンビ映画があった。
「高慢と偏見」は優れたイギリス文学として名高いジェイン・オースティンの秀作だが、この「高慢と偏見とゾンビ」は、ストーリーは忠実に、ただし「ゾンビ」が話の中を駆け回り大暴れする。
古典的名作に、B級感漂う「ゾンビ」が合わさることで、今までにない全く新しいゾンビ映画が誕生したわけだ。
【不朽の名作・感染!!】というキャッチコピーも秀逸だった。
まだ見ぬ新しい価値とは、このような異なる要素の組み合わせで生まれると聞いたことがある。
ビジネス書のような言い回しで好きではないが、「ドットとドットを結ぶ」ことでこの世界に新しい空間が誕生する。それは、退屈で単調な生活の檻を解き放ち、新しい爽快な風を吹き込んでくれる力を持つ。
日々の生活の中で見つかる「センスオブワンダー」は、この「ドットとドットを結ぶ」感覚に近い。たとえスティーブ・ジョブスのような、世界を一変させるようなイノベーションは発見できなくても、遠く離れた二つのモノが、自分の頭の中で共鳴する感覚は楽しい。
それは、何かと薄暗い日常、特に今年は暗かった日常を照らしてくれる光の粒子となり得る。
生きているとどうしても、周りと同じ生活基準を設定してしまったり、大勢の意見の方に合わせてしまいがちだ。でもよく考えてみると、それは自由の放棄だと思う。
せっかく唯一無二の自分を形成できるのに、周りにつられて同じものを見てしまうのはもったいない。
センスオブワンダーはそこを越えた先にある。土木仕事をしている人が、同じ仲間と居酒屋に行ったりパチンコを打ちに出かけても面白くないだろう。
そこを敢えてパチンコ屋に向かわず、自室で海外文学を読み耽る。あるいは、ベートーヴェンのピアノソナタを楽しむ。海外文学マニアの土木作業員なんてカッコイイ…すぐにでも何か新しいものが生まれそうな気配がする。
その人のポジションから全くかけ離れた新しい経験をするとき、物語の一節や楽器の旋律の中にセンスオブワンダーを見る。その人にしかできない独特の組み合わせが、その人自身のセンスを作り出すのだと思う。
今年もあと少し。この一年であなたが発見したセンスオブワンダーは何ですか?