古本屋まるちゃんの人生卑猥っす!

以前勤めていた会社の上司が亡くなった。
突然の訃報だった。若すぎる、唐突な不幸だった。

その方は、僕が入社して初めての仕事の時に、色々と世話を焼いてくれた先輩の一人だった。まだ学生気分の抜けない、右も左も分からない若造を、丁寧に指導してくれた。

当時のことを、まるで昨日のことのように覚えている。
社会に出て初めての仕事というのは、誰にでも深い記憶として残っているものだと思う。
その時側にいてくれた人だったら、なおさらだ。

指先まで神経の行き届いた、経験を基にしたアドバイスは、厳しいものではあったけれど、そのおかげで今の自分があると言っても過言じゃない。きめ細やかな性格は、仕事上で、人間関係で、時に支障になることもあったかもしれないが、先輩はその生き方を貫いているようにも見えた。

弔問に参列させていただいたが、親族の方を思うと胸が痛む。あまりにも急すぎる。関係のない僕でさえ、まだその方の死を受け入れられていない。
棺のなかで静かに眠る先輩を見て、不思議でならなかった。
人はいつか死ぬ。この世に生を受けた生き物は、必ず死ぬ。
それがわかっているのに、突然のことすぎて、先輩は亡くなったのではなく、何者かに連れ去られてしまっただけな気がして、それが棘のように抜けない。

死を迎えたものに対して、この世界はとことん冷たい。命の鼓動が止まった瞬間に、その身体を消し去ろうと自然界は動き出す。
停止した身体を置いてはおけないのが、この世の基本的なルールだ。
大切な人を失ったばかりの僕たちの、お別れをするための心の準備などまるで無関心だと言うように。
お前たち人間だけが特別じゃないとでも言うように。誰かが亡くなるたびに、その厳しい掟を突きつけられる。

何か悪いことをしたわけでもない。先輩より長生きしている人間はたくさんいる。なのに先輩は逝ってしまった。
もう美味しいご飯も食べられない。異性と愛のあるセックスもできなければ、この世界に苛立ったり、素晴らしい出来事に心を動かすこともできないのだ。
そう思うとやりきれない。

死を目の前に、僕たちはあまりにも無力だ。
お金も、名声も、ファッションも、情報も、貧困も、SNSのいいねも、フォロワーの数も。死を目前にしたら、何の意味もない。何の意味もなさない。
どれだけ世界が進歩しても、そこだけは依然として変化しない。日々めまぐるしく変わっていく不安定な日常に比べ、死は呆れるほど不変で、正確だ。

今年は痛ましい死に何度も出会った。地位も名誉も、若さも実力も手にした人が、何人も自ら命を絶った。容姿、才能、万人が欲しがるだろう全てのものを手放して、彼らは生涯を閉じた。

もっと生きたかったはずの先輩は、そのままかえってこなかった。

二つの死の前で、僕は息をし、生きている不思議を思う。

弔問で、先輩の最期の姿を拝見し、しっかりと手を合わせた。
今までお疲れ様でした。ご冥福をお祈り致します。

 

 

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