古本屋まるちゃんの人生卑猥っす!

ここ数年間、自分の髪を切るときは1000円カットに行っている。
若い頃は行きつけの美容院があって、自分の髪を担当してくれる美容師さんがいた。彼らは、僕の髪の伸びる経過をちゃんとイメージしてくれていて、セット後はもちろんのこと、伸びてきてもバッチリキマり続けるヘア・スタイルを毎度完璧に提供してくれた。

その美容院が提案するオリジナル・シャンプーのいい香りに包まれながら、僕は切りたての髪型の、ツーブロックに刈り上げた部分を満足げに指の腹でショリショリと撫で上げ、そして1000円カットに行くような輩をひそやかに軽蔑していた。
あんなところに行くなんて、なんてセンスの無い人間たちだ、と。

それが、気づいたらほぼ毎月のように近所の1000円カットのお世話になっている。
美容院通いをしていた昔の自分が知ったら、きっとその事実に驚愕することだろう。グーで殴られるかもしれない。

自分の髪型への興味というものは、年を重ねるうちに薄れゆくものなのか。
文字通り薄れゆく運命が人間の毛髪にはあるのだが、37歳になった今思うのは、自分の髪型と付き合う上で今が一番いい距離感なのかもな、ということだ。昔は気にしすぎていた。そもそも髪型がイケてる、イケてないというだけで人間の価値なんて決まるかよと最近よく思う。
外ヅラばかり気にかけて中身空っぽな人間だけはなりたくないと感じる今日この頃、そんなわけで今回は1000円カットの話だ。

ここ二ヶ月くらい前の出来事だ。髪が伸びてきたのでいつも通り、行きつけの1000円カットに向かった。
程なくして散髪台に案内され、しばらく待っていると店員さんがやってきた。そしてさっそく髪型の注文をしようとした時だった。その店員さんが僕に向かって何か板のようなものを差し出した。
よく見るとプラカードである。そこには、【切る長さ 1cm 2cm‥】【サイド 刈り上げ 整える程度】みたいな選択肢が細かく表記されていた。

その店員さんは耳の不自由なスタイリストだったのだ。言葉を話せないため、毎回そのプラカードを見せて客の要望を伺い、プラカードを頼りに髪を切り進めていく。
僕は1000円カットのお店ではだいたいボウズを注文する。その日もボウズにして欲しかったので、プラカードに書かれている【ボウズ】の文字を指差した。耳の不自由なその店員さんは僕の注文にホッとしたらしく少し頬を緩め、何ミリのボウズかを確認してからバリカンで僕の頭を刈り始めた。

僕は自分の髪の毛が刈られていく姿を鏡で眺めながら、懐かしさを感じていた。
子どもの頃、父に連れられて通っていた近所の床屋さんが、同じくろうあのご夫婦が経営するお店だった(以前、このwebろたすにも、その床屋さんの話を書いたことがあります)。僕はその時は、正直に言うとその床屋さんが苦手だった。
言葉が通じないし、生真面目だし、背中がくすぐったくてつい身を震わせるとその店の主人に怒った顔をされた。
言葉が伝わらないからか、その顔は余計恐ろしく見えた。床屋自体が嫌いになりかけていた時期だった。

その後、小学校に入学し程なくして僕は会食恐怖症を発症した。人と一緒にご飯を食べようとすると緊張して吐き気を催し、食べものが喉を通らなくなる摂食障害の一つらしい。
ただ友達と美味しくご飯を食べるという、当たり前のことが出来なくなった。人と同じことが出来ないことへの悔しさや悲しさを味わいながら大人になっていった。
僕が苦しめられたこの摂食障害は、それでもまだ生きていく上で何とかごまかしが効いたけど、耳が聞こえない、言葉が話せないのは日々その何倍も追い詰められることだろうなあと思った。

ノーマライゼーションという言葉が浸透しつつある世の中で、耳の不自由な店員さんを雇用するこのお店は素晴らしい姿勢だと思う。彼に対する他の店員さんの補助も手厚く、働きやすい環境を作ろうとしている。
何より、彼の客の髪を扱う時の真面目な眼差しが、子どもの頃お世話になった床屋の主人の生真面目さと重なり、懐かしさとともに不意に目頭が熱くなる。

この気持ちを感謝として今度伝えようと思っているのだけど、やっぱり手話がいいのかなあ。

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