スリに遭ったことはあるだろうか。スリは漢字で「掏摸」と書く。

フランスやイタリアはスリ天国だ。フランスに至っては、被害件数は年間で500を超えるそう。
この数字は被害届を出した件数なので、実際にはもっと多いだろう。毎日、どこかのバカな観光客や滞在者が移民系のヤンキーたちに金品を掠め盗られていることになる。
セーヌ川を潜ると、きっと川底にはシャンパンやワインの空き瓶の他に、スリによって投げ捨てられた観光客の空っぽの財布やバックが山となって沈んでいるに違いない。
これはあくまで、僕の想像だけど。

僕はなぜか、昔から金品を掠め盗られる人生だった。
社会人になりたての時、夜の公園で一人サッカーの練習をしていたら、ベンチに置いていたマンハッタンポーテージのウエストバッグを知らないうちに丸々持って行かれていた。
その中には車のカギと、財布とスマホが入っていた。大人にとって、とっても大事な貴重品三種。
人生が詰んだと思った。
その公園は、大型パチンコ店が隣接していたため、今考えるとけっこう治安の悪い公園だったのだろう。
何より、そのマンハッタンポーテージのバッグはその時交際していたパートナーから貰った大切な誕生日プレゼントであった。
なんて言い訳しよう…夜の闇の中で、僕は静かに絶望した。
案の定、その置き引き事件はパートナーとの別れ話の際の、袖にされる一因となった。

友人と近所の銭湯に行ったときに、パンツを盗まれたことがある。
僕は風呂から上がると一番最初にパンツを履くので、いつも衣類のカゴの一番上にパンツを置くようにしている。
その時もちゃんと、衣類カゴの頂上にパンツを置いたはずだった。
それが無くなっていたのだ。「あれ？無え！」と思わず叫んでしまった。
風呂場でパンツを盗むやつなんているのだろうか？脱衣所を見渡してもないし、ゴミ箱とかにももちろん無かった。
一応、受付の人に落とし物として届いてないか聞いてみれば？という友人の助言で、恐る恐るフロントの女性に「すみません。パンツの落とし物とかなかったですか？」と尋ねた。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。盗まれたパンツは、当然まだ見つかっていない。

スリ・置引きの思い出は尽きないが、ここ、スリの総本山と言っても過言では無い花の都パリでも、見事なスられ劇を演じてしまった。

パリ滞在、最終日。正午の日本行きのフライトに間に合うよう、朝9時に宿を出発した。
空が白み、街は目を覚まし始めていた。
僕は深呼吸をひとつした。キリリと冷えた朝方のパリの空気は苦手だったが、その日はそれがどこか名残惜しく感じられた。

片手には、一週間分の衣類と前日に買い込んだお土産がギッシリ詰まったスーツケース。
それをガラガラと引きずりながら、慣れ始めていた街の石畳の道にさよならを告げた。

シャルル・ド・ゴール空港行きのバスまで時間があったので、バス停近くのマクドナルドで朝食をとることにした。
注文を終え、大きな窓のついたスタンド席を陣取り、プレートを置いた。
早朝だけど、店内にはそれなりに客の姿があった。足元のスーツケースの取っ手をしまい、ハンバーガーを立ち食いしながら外の景色を眺めた。

日が差し始め、街路樹の枝やアパルトマンの窓ガラスがキラキラと輝き出した。
注文したコーヒーを一口啜る。気分が良くなってきて、僕はポケットに手を突っ込んでiTunesを起動した。頭にかけていたヘッドフォンから、軽やかな曲が流れ始めた。

一週間の滞在はあっという間だったけど、生涯の思い出に残る美しい街だった。
パリにはいつか、本格的に滞在してみたい。アパルトマンを借り、ここで確かな生活を送る。セーヌ川に架かる橋で一日ぼんやり過ごしたり、美術館巡りをしたりして、この歴史ある街に溶け込んで行きたい。

そんなことを夢想しつつ、夢見心地でふと足元に目をやるとスーツケースが消えていた。

「あえっ！？」と思わず変な声が出た。
まるで魔法をかけられたみたいに、足元に置いていたはずのスーツケースが忽然と無くなっていたのだ。「えっ？えっ？」僕は連呼した。
そして気づくと、僕は店の外に出ていた。
頭が真っ白になって、どうやら大慌てで外に飛び出したらしい。
自分の行動も知覚できなくなるほど、僕は気が動転してしまっていたのだ。
バカみたいにあたりをキョロキョロして、もう一言「えっ？」と言って、再び店の中に戻った。

店内に戻るとヘッドフォンから音楽が聞こえ出し、心臓がバクバク鳴っているのにようやく気づいた。
全ての感覚が遅れてやってきた。そうか、俺はどうやらスーツケースをスられたらしい…
自分が直面したできごとをやっと認めることができると、そうだ！犯人を探すんだ！と意識が働いた。

僕はものすごい勢いで店内を見渡した。しかしながら僕の茶色のスーツケースを持っているものなど当然ながら一人もおらず、皆知らん顔でハンバーガーを頬張ったりコーヒーを啜ったりしていた。

これがスリ大国か…と僕は逆に感動してしまった。
音も立てず、姿も見せずに忍び寄り事に及ぶ、電光石火の早業。これまで日本で色々なものをスられ続けてきた僕も、今回は舌を巻いた。
九死に一生を得たのは、クレカ、パスポート、スマホといったライフラインを身につけていた事だ。その他の荷物全てを失って、僕はスッテンテンの状態でフランスを追い出された。

後で気づいたが、僕も僕でヘッドフォンで音楽を聴いてたり、ぼんやりと夢想に耽っていたのが完全に悪い。
自ら耳栓をして目を瞑って、スリをして下さいと言っているようなものだ。
フランスに行かれた際、皆さんは僕と同じ轍を踏まないよう気をつけてくださいね。