古本屋まるちゃんの人生卑猥っす!
南米を旅している時にある宿でイタリア人のバックパッカーと仲良くなった。その彼が、ある日とてつもなくウマいパスタを作ってくれたことがあった。
彼の名はロビンといった。ロビンは僕が日本人であることがわかると、しきりに日本のことを知りたがり、
「なあ、なぜ新幹線の中では話をしないでみんな大人しくしているんだ?」
といった具合に、色んなことを僕に尋ねてきた。
日本ではクリスマスの日になぜかKFCを食べるんだぜと教えてやると、ロビンは宿のスタッフ達と一緒にげらげら笑っていた。
夕方近くになると、ロビンが意気揚々と「今夜は僕がみんなにパスタを作ってあげよう」と言い出した。早速近くのスーパーで食材を買ってくるというので、僕も宿のスタッフ達も一緒についていくことにした。
彼がスーパーで買ったのはペンネ、トマト、たまねぎ、唐辛子、にんにく、ベーコン、チーズとビール1ケース(イタリア人らしく、買い物に来ている色っぽいラティーノに熱い視線を送ることも忘れなかった)。
買い物から帰ってきたロビンはさっそく宿のキッチンを借りて調理に取り掛かった。購入してきたシンプルな食材を使い、調味料も塩とオリーブオイル、ペッパーといたってシンプルだった。
工夫していた点を挙げるならば、しきりにパスタの茹で時間を気にしていたくらいだ。
しかし、完成した彼のペンネ・アラビアータはびっくりするほどウマかった。今日、明日からでもイタリアンレストランを開店できそうな、なにか確立したウマさがあった。これを家庭用キッチンから生み出すとは…イタリア人はキッチンに立つと魔法使いになるのだとその時本気で思ってしまった。それは女性にもモテるはずだよなあと一人で納得した。
その後、僕は旅行中に色んな宿のキッチンを借りては、ロビンが作ってくれたトマトソースをマスターしてやろうと試行錯誤を繰り返したのだが、結局それが完成することはなかった。水気が多くなってしまうのと、どうしてもトマトの酸味とトマト臭さが抜けないのだ。
なぜロビンが作るとあんなにもねっとりとコクのあるトマトソースが出来上がるのか、いまだに謎である。
ロビンは僕たちに美味しいパスタを振る舞ってくれた後、どこで知り合ったのか、絶世のフランス人美女と共に夜の繁華街へ消えていった。
人生の楽しみを全てかっさらっていく。イタリア人には敵わない。
妻の友達のイタリア人が日本に遊びにきた時、僕の家でカルボナーラを作ってくれたことがあった。その時にある面白い発見をした。
そのイタリア人の友達は調理をする過程で塩を使わないのだ。僕が塩は入れなくていいのかと尋ねると、
「塩はあまり入れない方がいいんだ。なぜならベーコンと、卵黄と一緒に混ぜたチーズにそれぞれ塩分が含まれてるからね。すでに塩を振っていることになる」
といった答えが返ってきた。ベーコンとチーズ。調味料を入れる前に、それぞれの食材の成分に注目するという発想がなかなかユニークだった。
なるほどと思いつつ、出来上がったカルボナーラをいただいた。美味しい。全体的に薄味なので塩分を含んだベーコンと一緒に味わって初めて、口の中で良い塩梅になる。
余分なアブラや塩を加えなかったおかげで、いくら食べても胃腸がすっきりとして清々しい。
彼の作ってくれたパスタは、全体を塩辛くするのではなく、元から味のついた食材にある程度の風味を任せていた。例えばベースとなる風味はベーコンとチーズから、脂気はオリーブオイルとベーコンを焼いた時に出る脂からいただく、といった具合に。それぞれの食材の特徴を活かしつつ、食材同士足りない部分を補い合いながら一つの料理を生み出している。まるで各食材に担当が割り当てられているみたいでおかしい。
日本食に慣れ親しんだ僕にとって、イタリア人がパスタを作る時のこの発想はすごく意外で、それだけに新鮮でもあった。
日本の食に対する意識は、できるだけ商品の味つけを濃くすることで、食べる人の舌を満足させようとする傾向が強いように感じる。あらかじめ塩気の効いた食材の上からさらに味のついたものを振りかけたり、味の違うもの同士を集めたり。
確かに味が濃いとごまかしが利くし、瞬間的に美味しいように錯覚してしまう。
イタリア人のパスタを作る発想はそれとは違って、味を食材そのものに頼っている。すると、出来上がるものもスタイリッシュで素朴なものになる。
どちらも食を表現する上での大事な方法なのだろうけれど、イタリア人の作るパスタからは、これだけ様々な食べ物に出会うことのできる飽食の時代に、食材本来の味へ立ち還るある種の潔さというか、故郷の味を大事にする愛国心を感じないではいられない。
天性の女たらしではあるものの、イタリア人はどこか憎めない。彼らはそこがずるい。