古本屋まるちゃんの人生卑猥っす!

シャーロックホームズの冒険に「ボヘミアの醜聞」という話がある。
その作中、ホームズとワトソンの間に以下のような掛け合いが描かれている。

ホームズ「例えば君は、玄関からこの部屋にあがる階段をひんぱんに見ているだろう」

ワトソン「もちろん」

ホームズ「何度くらいみた?」

ワトソン「それは、何百回も」

ホームズ「では、階段は何段ある?」

ワトソン「何段だって?そんなの知らないよ」

ホームズ「そうだろう!観察していないからだ。みてはいるけどね。そういうことだよ。僕はあの階段 が17段あることを知っている。見るだけじゃなくて観察しているからだ」

階段をただの風景だと捉える助手のワトソン。一方、稀代の名探偵シャーロックホームズにとって、階段は単なる風景ではなくれっきとした情報であるらしい。
階段だけでなく、彼はこの世の全ての事象が情報なのだと言う。そこから彼の鮮やかな推理が始まっていく。

日常のささいな物事にも意味を見出し、観察することで華麗に謎を解いていく。そんなシャーロックホームズがかっこよくて、特にこの「ボヘミアの醜聞」を読んでからというもの、僕は普段自分を取り巻いている身の回りのものが、急に身近で興味深いものになっていった。

この花はなぜここに咲くのだろう。なぜあんなところに信号機があるのだろう。なぜ海は青いのだろう。

僕の中の「なぜ」はどんどん膨らんでいき、それを知りたい好奇心と、「なぜ」の答えを想像する時の自由な発想で気づけば一日はあっという間に過ぎていた。それまでの退屈な日常から抜け出し、新しい世界を発見したような感動があった。いや、退屈な日常から抜け出したというよりは、何気ない「日常」そのものを改めて問い直すことができたのだと思う。

シャーロックホームズの本は僕に「この世の全てのものには意味がある」ことを教えてくれ、さらに「想像することの楽しさ」を授けてくれた。

それまで「知らないことは恥ずかしいこと」だと決めつけていた考えは「知らないことはチャンスなのだ」という前向きな肯定に大きく変わっていった。「知らないこと」は「謎」になり、目の前に現れた「謎」はまるでホームズのように僕をワクワクさせてくれた。そしてその答えにたどり着くたびに、僕は思考の心地良い広がりと、自らへの自信と、次なる謎への純粋な要求を感じるようになった。

気づくと僕は「未知のもの」にどんどん惹かれていくようになった。
今まで見たこともない風景に出会いたい、自分の知らない土地へ行って住んでみたい、日本では出会えない人たちと交流してみたい、自分の頭では及びもしなかった考えにたどり着きたい。不思議なことに、物事を知れば知るほどわからないことが増えていった。それらを心ゆくまで覗いてみたいという欲求に駆られ、何かに導かれるように僕は置かれた今の環境を変えたくなった。

最初の仕事を辞めると、人間関係が変わった。今までそばにいた人々は僕の下から離れていき、その代わりに新たな出会いが生まれた。そこで出会った彼らは僕が今まで見てきたような人には無い、リアルな人生劇場を繰り広げていた。より動物に近い人間の息吹を感じる時もあった。自分にしか見えなくなった新たな風景を眺め、新たな音楽や本に出会い、僕はいろんなことを考える時間が持てるようになった。

もともと人は未知のものに対してとてつもない憧れを抱くようにできているのではないだろうかと感じる瞬間がある。

いやな例えだけど、身近なものだとギャンブルなんてそうだと思う。僕はギャンブルはやらないけれど、勝つのがわかっていてギャンブルに出かける人はいないだろう。勝つか負けるかわからないから、人はそこに刺激と興奮を求めるのだと思う。わかりきった日常なんてつまらないと考えるのは、人がいくつもの苦難を乗り越え生活の質を高めるために培ってきた、太古からの本能なのだと思う。

たどり着けるかどうかわからないけれど、自らが望む新大陸を発見するために、人は一人小舟に乗り、荒波を蹴りながら舵を切り続けるんじゃないだろうか。ホメロスの「オデュッセイア」じゃないけれど、人が旅と冒険に人生を重ね合わせる気持ちはいつの時代も変わらないのだと思う。

今、僕を突き動かしているものは「わからないもの」に対する好奇心だ。「わからないもの」に対して思考を巡らしている時、僕は限りない自由と何ものにも代えがたい楽しさを感じる。
現代は先行きがわからない不確実な時代だと叫ばれて久しいけど、暗くならず、先行きがわからない状況を敢えて楽しむという選択肢があっても良いんじゃないだろうか。少なくともホームズは目の前の「謎」に対して、楽しそうに対決する。

人類もまたそうやって未来を想像し、前に進んできたのだと思うから。

 

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