古本屋まるちゃんの人生卑猥っす!
僕の友達にスポーツジムを経営している人と、ヴィーガン(完全菜食主義者)の人が何人かいる。
スポーツジムを経営している友達は、理想的な健康体を保つために肉食は欠かせないという。
一方、ヴィーガンの友達は、肉食を断ち畜産業を限りなく減らすことが、温室効果ガスの削減につながり、ひいては地球環境を守ることに繋がると主張する。
肉食か、菜食か。もしあなたが、どちらかの立場に立たなければならないと言われた時、どうするだろう。
確かに地球環境は僕たちの手で守っていきたい。菜食は体にも良さそうだ。
でも昔から食べ慣れてきたお肉の誘惑に今さら勝てそうもない。さらに、毎日こう暑いと、お肉を食べてスタミナをつけないと働けそうもないじゃないか。
ろたすのラーメンからあの美味しいチャーシューが失くなる日がきたら困る…
このまま肉食を続けていったら環境破壊がどんどん進んでしまうし、かといって全員がヴィーガンになったら畜産業者やジムのトレーナーが悲しい目に遭う。
僕はこの相反する友人たちの主義の間に挟まれ、未だ完全な正解を見つけられていない。
なぜならどちらの考え方も正解で、一方で間違ってもいるからだ。
ある一方の考えに加担すると、必ずその考えによって被害を被る人が出てくる。被害を被っている人に話を聞くと、なるほどその人の言い分もわかる。つまりどちらも正しいのだ。
世の中はどこもかしこもこんな話で満ち溢れている。
人種、肌の色、宗教、政治。誰かにとって生きやすい社会は、必ず違う誰かにとっては生きづらい社会になってしまう。
そんな中、全ての人にとって生きやすい最適解など見つかるのだろうか。
肉食が良いか菜食が良いかについては、悶々としながら長い間あれこれ考えてきたが、最終的に苦しくなって考えるのをやめた。
ズルい僕は現在、どちらの友達にも良い顔をして、二人の真ん中に鎮座しその両方の意見を受け入れることで不本意ながらもその解としている。
菜食主義の友達から地球環境にまつわる深い話を聞いて感銘を受け、その友達の見ていないところで美味しいお肉を頬張る生活。
環境に配慮した生活を心がけたいし、お肉も美味しいから食べたい。その友達の両方から得られる恩恵を存分に享受し、そこに自らの意見はない。
これ以上悩みたくないというずさんな気持ちから、双方の間を取ることで、自分だけが幸せになるおいしいポジションを見出すという苦々しい回答にたどり着いた。
でも僕は思うのだが、スポーツジムの経営者だって、環境にはちゃんと気を遣いたいだろうし、ヴィーガンを実践している人だってたまには美味しいお肉の一枚や二枚食べたいんじゃないかと気になる。人間には誰しも狂った部分があると思っているので、一つの考えを軸に生きている人を見るとつい、そのような意地悪な気持ちが芽生えてしまう。
信念を貫いている人はすごくかっこいいと思うけど、自分の狂気に負けて欲望のまま生きている人も、それはそれで素直で可愛らしくて良いと僕は思う。
そもそも善悪、正しい正しくないの明確な基準なんてない。だけどそれを無理やり定義しようとして、世界はずっと昔から戦争を続けている。
そういったややこしい問題を取っ払って、「ただ生きている」という状態が、今のところ僕にとって最も居心地のいいポジションである。その居心地の良いポジションに面白い本やカッコいい音楽なんかの暇つぶしがあったらもう最高だ。
今僕は、「月刊イヌ時代」というコラム誌を発行しているが、この媒体も基本的な理念はそこにある。
つまり、何が正しいか、正しくないかはとりあえず置いておいて、とにかく今思っていることを素直に著者さんに書いてもらうことに重きを置いている。
何かについての正しい答えなんかないのだから、何を書いても正解!
これでいいじゃないか。