sioちゃんのかみなりおこし

 得意科目の話になった。好きか嫌いかは置いておいて、国語が得意だった。日本史や地学の方が興味は強いけれど、記憶がモノを言う教科は苦手だった。どの科目もある程度、記憶することと体系化が必要だから、学校で習う類の勉強は楽しさの数倍、しんどさの方が上回っていた。

 そんな中、国語の解答は、一字一句合ってなくても、概要が合っていれば◯、または点数をもらえることということに自由を感じた。漢字や古典科目はある程度、言葉や文法を覚える必要があるが、現代文は目の前のテキストに答えがある。何もこねくり回さなくて良い。導き出さなくていい。思い出さなくていい。自分の記憶力を呪わなくていい。こんなに愉快なことがあるだろうか。唯一、苦しさを感じない科目だった。

 得意だから国語の先生に覚えてもらえるし、褒められるし、嫌でも勉強をやらなきゃいけないとしたら国語を選んでしまうから、また国語の成績ばかりが上がっていく。受験勉強をしているときは「国語が得意なだけで生きていける世界があればいいのに」と本気で思った。同時に、英語や数学と比べると、生きていくための即物的な力にはならないと感じていた。

 高校生の受験シーズンに、同じクラスで隣の席だった男の子は、理数系科目が得意で文系科目が苦手だった。私と真逆である。しかも文系科目の中でも、国語が一番足を引っ張っているようだった。ある時「どうしたら国語で良い点が取れる?漢字以外の勉強方法がわからない」と聞かれたが、試験に出るような現代文は、問題を作った人が回答者にどういう答えを提示させたいのかを読み解くのがカギであって、正直勉強もクソもない。実際、問題文に設定されている小説や評論文の作者の意図と違う問いが勝手に設定されることもある。「数をこなしてコツを掴むしかない」としか言えず、「それができたら苦労はしない…」という顔をされた気がする。確かに、逆の立場だったら同じような顔をしただろう。

 またある時、「sioちゃんは本を読んでいるから国語も得意なんだね」と言われたことがある。これは全くの大違いで、高校生のころは漫画とアニメ、ゲームとニコニコ動画ばかり見ており、本は年に数冊読めば良い方だった。しかし本を全く読まない人からしたら、私が持ち歩いている本が何よりの証拠に映るのだろう。その本、半年くらいずっと持ってるだけだし、ここ2ヶ月くらい1ページも読んでないけどね。とは口に出さず、どう評価しようがその人の勝手なので、否定も肯定も面倒臭い、などと思っていた。(今思えば心がない)

 一番読んでいたのは、ネットで素人が書いている小説とwikipedia。なんせお金も掛からなければ返却する必要もない。それも娯楽として読んでいたわけで、成績を上げるためだとか、役に立つからではない。ただ簡単に好奇心と知識欲が満たされて、現実のどんなことよりもハマれる、みたいな作用はあった。正直、現実から逃れられるほど没入できればなんでもよかった。

 今更ながら振り返ると、現代文はいわゆる読解力だけではなく設定の意図、つまり「オトナが未成年にどういう答えに行き着いて欲しいのか」を頭に入れておくとすんなり解けたりする。あとはその意図に慣れるために数をこなすのみ。現代文の問題を解くのに、文法理解も物事の背景を探る思考力も必要ない。写真を撮る人を撮るような構図の俯瞰をすると見えてくるものがある。ただ目の前の日本語について主観を含めず認識し、主観を含めながら筋道を立てて意見するだけである。

 こうやって小手先の回避術ばかりが上手くなり、どうにか人に怒られない程度に社会が求めてくることをこなせたり、逆に理不尽な場面を避けられるるようになったり、最低限の社会性を身につけるお守り代わりに現代文、というより文章と相対するのは効果があるのかもしれない。

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