sioちゃんのかみなりおこし
「sioさん、自分で描いてみたらいいですよ」
画家の北見美佳さんが描いた小さなキャンバスの絵が欲しくて、「買わせてください」と話した時のことだ。「いやあ、またまた」と思ったが、あれよあれよという間に、アトリエで「年忘れアート会」が開催されることになった。午後から夜更けまで、都合のいい時間に訪れ、各々の予定に合わせ帰っていくスタイルで、友人知人たちも参加していた。
北見さんが用意してくれた長方形や正方形、丸のキャンバスから好きな形を選び、自由に絵の具を乗せていく。絵の具を使って絵を描くということ自体、高校の美術の授業以来だったので正直戸惑いの方が大きかった。北見さんから指示されることもテーマも特にない。そういえば、美術の授業って必ずテーマ設定があった気がする。ふと突然、自由に放り出された時の不安感が忍び寄った。
「自分に絵が描けるのだろうか?」、「何を描けばいいのだろうか?」。そんな気持ちをよそに、色を混ぜること、キャンバスに色を乗せることの楽しさを思い出す。描きたいもののイメージが定まっていて、それに向けて描いていく人もいると思うが、私は全く逆で、とにかく乗せたい色をペインティングナイフで滑らせていった。
物事をざっくりと捉えて、手を動かしてから後々のことを考えるという、自分が仕事や料理をする際のやり方が絵にも表れていて、少し気恥ずかしくなる。深海のような濃い青を全体に塗っていったあと、雪にも白波にも見える細かい白や銀を散らし、最後に上からオレンジを旗のようにサッと塗った。これは当初欲しかった、北見さんの絵のイメージが頭のどこかあったからだった。
しかしオレンジを塗った瞬間、思ったより茶色っぽい、濁った色になった。「これじゃない!」と思った瞬間、また上から一段と濃い青を重ねていく。ところどころ絵の具を削り取ったりして、いつの間にか宇宙船のような存在が浮かび上がる。塗り進めていくうちに、「これは私の心臓であり、宇宙船であり、船には先祖たちの魂が乗っているのだ。人それぞれ魂の強さも形も長さも異なる。彼らの人生の末に私が今いる」と感じるようになる。というか、降りてきた。キャンバスが勝手に引き出してくれる自我みたいなものが鮮明になっていく。これまた初めての感覚に気恥ずかしさが強く、「恥ずかしい、恥ずかしい!」と連呼していたように思う。
ふだん意識していない自我を、創作によって引き出される。キャンバスに絵の具を乗せるまでは全く予想の付かなかった感覚で、なぜかスッキリしている自分がいた。途中、北見さんに淹れてもらったお茶を味わいながら、みんなで持ち寄ったお菓子を食べたり、談笑したり。目的を持たず、ただ目の前のことに集中する時間の贅沢さに、年末であることを一瞬忘れる。
時間と空間を含め、アートって本来こういうことなのかも、人間にはこういう時間が必要なんだ、と感じた一日だった。自分で描いた絵を眺めるたび、心臓を撫でているような心地になっている。